これは「公認ファンサイト」だから、客観的な解説を書くべきなのだろうが、どうしてもその気になれないのは、私があまりにもあの時代の空気を呼吸しすぎてしまったからかもしれない。まずこのことをお断りしておこう。
---時は1980年代の終わり。日本がまだバブル景気の頂点にあった時代、1988年の夏、ロンドンではセカンド・サマー・オブ・ラブとともにアシッド・ハウスのムーヴメントが勃興していた。
1960年代末のヒッピー/サイケデリック時代以来の新しいアンダーグラウンド・サイケデリック・カルチャーの爆発は、極東のこの国に届けられることはなかった。唯一の例外が、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットだった。
売れないサイケロックのバンドだった淫心のメンバーたち四人は、セカンド・アルバム『鳥どもの家』(1988)完成後、どこのレコード会社も相手にしてくれないことに腹を立て、日本を飛び出し、ヨーロッパへ渡った。そして偶然にも、ロンドンで新しい音楽とムーヴメントに遭遇する。アシッド・ハウスとレイヴの文化である。
そして帰国後すぐに、彼ら四人は、イリーガル・レイヴを、彼らは大阪や長野でひっそりと始めたのだった。
そのあと90s初頭にに至るまで続く、あの息苦しいようなアンダーグラウンド・テクノとアシッドの時代。彼らはそれよりも以前に出発した「早すぎたバンド」だった。
そんな時代---まだ誰もレイヴはおろか、ハウス・ミュージックなんて言葉すら知らなかった時代に、
レイヴをやる。これはほとんど一つの先駆的実験的行為という以前に、一つの冒険であることは論をまたない。
さらに、幸か不幸か、彼らのスタイルは、あまりに独創的だった。ヨーロッパ、いや世界中を見回しても、あんなバンドはなかったと、今では多くの人たちが口を揃えて語っているほどに。
なぜなら「ファー・イースト」のレイヴは、古代の秘儀を現代に復活させるというテーマを持っていたからだ。それが彼らのオリジナリティであった。だからこそ、巫女(あるいは生贄)としてのダンサーも必要だったし、音楽家は音楽家である以前に、この無法の熱狂祭の司祭のようだった。
すべての「祭」がそうであるように、それは神聖なものでなくてはならなかった。客はあらかじめ選ばれ、パーティは秘密裡に履行された。彼らはまさに、現代の「秘儀」あるいは「祝祭」を実現したのだ。
そこでは、踊り子は鶏を殺し、客たちは裸になって、雨の中でいつまでも踊った。炎が焚かれ、楽器やアンプは破壊された。
詩人である私も、そこに呼ばれたことが何度かあった。「儀式」への参加を許されたわけで、詩人としてはこれほど光栄なことはない。
だが、それが誰であれ、参加者は、客と上演者の区別なく、天に向かって燃え上がる狂気の中で一体となった。そこでは全てが許され、全てがあるがままに曝け出された。
彼らは誤解され続け、そして最後には自らの誤解を自ら背負ったまま、「暗黒のバンド」として、アンダーグラウンドの本懐ともいえるようなスタイルに徹して消え去ってしまった。
むろん、田嶋エリサがあとで告白したように、「最初の頃、それは完全にロンドンのイリーガル・レイヴの真似っこだった」のに違いない。だが、日本という特異な環境の中で日本人の同世代の若者たちを集めてそれをやること、それがいつしか彼らの使命のようになり始めた時点で、このバンドの方向性は決まったのだった。
アシッド・ハウス同様、これもまた、88年の「ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット」に先立って87年のニューヨークで幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)が、それに似たスタイルでのライブをおこなっている。「マルチメディア・ヴィジョンクウェスト」シリーズがそれで、廃ビルやロフトなど、当時のNYにはそれにふさわしい環境がまだいくらもあったと芙苑晶は言う。
この二つのバンドは、そういった時代背景なり、特殊なアンダーグラウンド・カルチャーを背景として現れたバンドだった。だが、その後90年代以降現在に至るまで、この二つのバンドの志向したベクトルは、ある意味で正反対でもあった。
その後、「ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット」はイリーガル・レイヴそのものを自己目的化して続けられた。彼ら(とくに、田嶋エリサとスペースDJリョウの二人)は自ら、自分たちはイリーガル・レイヴ・バンドであると公言し続け、そのスタイルに固執してライブをおこなった。工事中のビルや廃墟の学校や農村や山岳地帯の廃校などが彼らの舞台になった。
それは今思えば、ちょうど90年代の始まりとともに、商業化し巨大化してゆくクラブというもの、そのなかで形骸化し骨抜きにされてゆくクラブ・カルチャーというものと反比例するかのように、彼らの情熱はクラブにはなく、野外のイリーガル・レイヴに向けられた。
むろん、クラブに出演することもあったにはあったし、このようなスタイルのバンドがクラブでアトラクションをやるということ自体、その当時まだかなり珍しいものだったが、しかし私の知る限り、彼らはすでにクラブというものを醒めきった目で見ていたと思う。
すくなくとも彼らは、そののちクラブが商業化され形骸化するであろうことを予言した最初のバンドだった、それだけは確かであろう。
そして次第に、彼らの活動の場はなくなっていった。クラブを拒否し、度重なる野外のライブでのメンバーや客たちの逮捕劇(騒音問題や不法な薬物使用の嫌疑による)などが、活動を困難なものにしていった。
そして彼らは93年、すなわち世間ではテクノ/レイヴ・ムーブメントがオーバーグラウンドに浮上したこの年に、そのライブ活動を凍結し、あたかもビートルズのごとく、その後期はスタジオ・バンドとして再出発をすることになる。
その後の彼らのたどった道は、ただひたすらエレクトロニカの袋小路での音響実験(それもいかがわしいほうの通説にしたがえば、アシッドをはじめとするドラッグのからんだ)の繰り返しであり、最後は相次ぐメンバーの死という悲劇で幕を閉じた。
いっぽう、幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)の音楽そのものを追求するプロジェクトだったので、こういった悲惨さはまったくなかった。彼らはたしかに「ファー・イースト」同様、ネオ・ヒッピー的な要素が非常に強いバンドだったが、しかし音を追求するという点では、その他のサイ・トランス・バンドとそう変わらなかった。
彼らはあくまでもミュージシャンであった。そこが「ファー・イースト」とは違ったところだった。「ファー・イースト」は、反社会的(彼らの言葉を借りれば「非社会的」)なバンドでありすぎた。
この二つのバンドに芙苑晶が在籍していたことは、(その当時はそれほど意識しなかったが)今考えると、なにかとても興味深い。
かつて90年代初期以前にイリーガル・レイヴのバンドがやっていた野外パーティのスタイルはのちに商業ベースに乗る形で巨大化し、90年代後半にはレインボー2000をはじめとするいくつかのイヴェントでひとつの頂点を迎えるが、21世紀に入ってからはそのエネルギーはしだいに衰退の方向へ向かっているとも言われる。
イリーガル・レイヴは今もあるのだろう。そしてそれは我が国の軽佻浮薄としか言いようもないマスコミの動向などとは無関係に、こころある人々の手によって地道につづけられているのに違いない。
それらの新しい世代のイリーガル・レイヴ主催者たちのなかに、「ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット」や幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)(日本においてはとくに前者)を絶賛し崇拝する若い人たちがいるのは、その黎明期の悲惨と栄光をふたつながら知り尽くした私たち「ケミカル世代」の元祖レイヴァーたちにとっては、せめてもの慰めと言えるかもしれない---。 |