| ※背景をブルーグレー、黄色文字で示した項目は、公式に発表された芙苑晶・ソロ・アルバム |
| 1969 |
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1973 |
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1973-
82 |
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4才頃よりピアノを始め、6才頃より作曲を始める。6才の時初めてピアノのリサイタルを開いた。
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7才の頃、黛敏郎氏(作曲家)に才能を見い出され、クラシック音楽の英才教育を受ける。
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小学校の終わり頃(10才頃か)から、クラシックの音楽理論を独学で学び始める。小学校から中学時代にかけて、作曲を黛敏郎、團伊玖磨らに師事。和声学、対位法、ソルフェージュ、管弦楽法などを学び始める。当時はクラシック作曲家志望であった。ベートーヴェン、ワグナーを崇拝。
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下の姉が難病のため14才で亡くなる。姉の死に衝撃を受けた。
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1983-
1985
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最初のクラシック作品『ピアノとオーケストラのためのコンチェルト(Concerto for Piano and Orchestra)』発表、14才で作曲家としてデビュー。1985年には管弦楽のための交響詩『エアリアル・シンフォニー(Aerial Symphony)』を発表。
武満徹、黛敏郎、芥川也寸志などからの絶賛あり、天才少年の評価を得るも、作品そのものは狂気に傾斜した作品と見なされ、クラシック界一般からの評価は得られずに終わる。
中学時代の後半(推定)、作曲家・武満徹と出会う。このとき、武満は芙苑晶を評して、「たぐい稀な、悪魔的な天才・・・」と語ったという。
これらと並行して、電子音楽・前衛音楽などに興味を抱く。12才頃、最初のシンセサイザーを購入。14才頃、アメリカ・シカゴにホームステイした経験がある。
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中学時代、学校の級友に誘われて、ハードロック・バンドでキーボードを弾いていたことがある。
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本人の記憶によれば、小中学校時代はあまり勉強熱心なほうではなく、成績もパッとしなかった。とくに下の姉が病死して以後一年ほどの間、中二から中三にかけては成績が極端に落ち込み、下から数えたほうが早かったという。しかし、進路相談では芸大作曲科への進学が仮決定していたのと、また、母に「国公立でないと大学には行かせない」と脅されていたため、中三の後半になって突然猛勉強を始め、卒業直前になって学年でトップの成績を取った。
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1985-
1986 |
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高校入学。このころより現代音楽・前衛音楽に傾倒する。電子音楽、ミュージック・コンクレート(具体音楽)の技法を住谷智に学び、ミュージック・コンクレートの習作を制作。
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全て電子楽器によるアンサンブル「エテロフォニック・オーケストラ(Etherophonic Orchestra)」結成。各地でコンサート活動。図形楽譜を用いた作曲により自作曲を演奏。東洋初と推定される革命的なものであった。
当時の作品には『電子オーケストラのためのオラトリオ』や、『エテロフォニー(Etherophohy)』等がある。
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作曲家・武満徹に師事。しかし武満は基本的に弟子を取らない方針であったため、音楽理論を教わるよりは芸術論を交わすような間柄となった。
のちに武満の紹介で暗黒舞踏家・土方巽、小説家・中井英夫、仏文学者・澁澤龍彦らを知る。
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こうした一連の活動の中で、知性に走りすぎ感情表現を失ってしまった現代音楽のありようとそのスノビズム及びエリート主義を批判し、「芸術は大衆のためのもの。だが『大衆』とは、『愚かな人々』 を意味する言葉ではない」と語り、ポピュラー音楽とクラシックを真に融合する、新しい「総合音楽」を創るべきと主張。
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これらのクラシック分野での作曲活動のかたわら、サイケデリック・ロック・バンド「淫心」を結成し活動を始める。マダム呪々と芙苑晶の二人が中心になったこのユニットは、サイケデリック・ロックからミュージック・コンクレートまでが入り乱れる不定型な作風ながら、のちの「淫心」〜ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットの原型となった最初のプロジェクト。
しかしこの当時は実験段階で、1枚自主制作アルバムをリリースしたのみに終わった。
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高校時代は成績優秀で、入学当初は学年トップであったと言われる(FC会報・クラスメートの証言より)。しかし反面、反体制的な生徒でも有名であった。
高校二年の秋頃(推定)、クラスメートらとともに学校の服装自由化運動を提唱。そのリーダーとして「学生の自由を認めない教師たちの官僚的独裁主義」を告発するビラを全校に配布、日本の教育制度を批判、無期謹慎処分となる。
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謹慎処分中に図書館に通いつめ、主にヨーロッパの文学、思想・哲学書を読破した。文学ではJ・K・ユイスマンス、マルキ・ド・サド、ボードレール、ランボオ、萩原朔太郎、澁澤龍彦、哲学ではパスカル、キェルケゴール、ライプニッツ、ジョルジュ・バタイユ等に傾倒する。以後、あまり学校へ通わなくなった。
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この頃、同じ高校の同級生たちと将来の進路について話し合っていた時、「いつの日か、革命家か錬金術師になりたい」と真剣に語ったことがあるという。また、クラスメートの記憶によれば、「街を歩く時いつも、ジーパンのポケットに岩波文庫のランボオの詩集『地獄の季節』を入れていた」という(芙苑晶FC会報より)。
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高校二年の夏頃(推定)、アジア諸国放浪の旅を挙行。おもにインド、ネパール等を回る。シンガポールを経て、中学時代の恩師のいたネパールを訪ねたのがきっかけで、現地の友人らとともに旅をする。先住民文化や原始宗教などに関心を寄せ、古代音楽・民族音楽などを探究する。
帰国後、教師らに無断欠席を批判されたが反省の意を見せなかったこと、反体制的生徒と見なされていたことが理由で、高校を二年の秋(推定)で退学処分となる。
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日本の高校時代、ドイツの大作曲家・カールハインツ・シュトックハウゼンに自作の楽譜のコピーを添えた長い手紙を書き、返事をもらう。このころより西ドイツ行きを秘かに計画。日本の高校を二年で中退してヨーロッパへ渡ったのは、シュトックハウゼンに弟子入りするためというのがほんとうの理由であったとも言われている。
高校時代の途中までに、和声学・対位法・ソルフェージュを修得する。当初は日本の芸大作曲科に進む予定だったが、やめたのは、教師に「もう教えるべきことは何もない」と言われたからであるという。
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| 1987 |
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日本の高校を2年で中退後、単身ヨーロッパに渡る。主にドイツ(旧・西ドイツ)に滞在。現地で、カールハインツ・シュトックハウゼンに師事。大きな感化を受けた。
ただしこれは師弟関係と言うよりは、武満徹と同様、世代を超えて芸術論を闘わすような間柄であった。芙苑晶はシュトックハウゼンを尊敬し、またシュトックハウゼンも芙苑晶の才能を高く評価していたが、ときおり激論になるなど、刺激的な関係だった(インタビューより)。
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作曲家・マウリシオ・カーゲルに師事。
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隠秘学を研究。神秘主義思想に関心を寄せ、ルドルフ・シュタイナーの人智学、グルジェフの神秘宇宙論等に傾倒。専門学者の運営する隠秘学研究所に入るが、のちに訣別。
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この時期、当初は大学へ行くつもりはなく、本人曰く、語学学校に通うかたわら、現地で作曲活動を続け、「ブラブラしていただけ」であった。しかし隠秘学を学んだことが契機で、ケルン大学聴講生となり、哲学等を学び始める。
ジェルジ・リゲティ(作曲家)と会ったことがあるらしい(=この年か? 推定)。
同じ頃(=推定)、メスカリンを初めて体験する。そんなに強い印象は受けなかったという。
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「神秘象徴主義音楽(Esoteric-symbolism Music)」を提唱する。芙苑晶は現在までにいくつかの音楽上の新手法を提唱・発明しているが、その最初のものと推定される。この思想・手法に関連すると思われるもので、このころの作品に、図形楽譜を用いた『幽星体投射 (Astralprojektion)』、『万物照応舞踏(Correspon-Dances)』などがある。 オーケストラのための最初の公式なシンフォニーとして発表予定だった大作、『交響曲第一番(Symphony No.1)』を作曲(未完成)。
これらの初期作品群は、ジャンル的には現代音楽に属するものであり、現在に至るまでCD化もされておらず(ドイツでは何度か上演はされたことがある)、のちに一般に知られ現在に至る芙苑晶の作風とは別人のように異なっているものの、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットや幻覚植物研究所における「原始回帰のための秘儀としての野外レイヴ」といった芙苑晶ならではの独創的な思想・表現手法との関連が深いもの、ないしは一つの思想的ルーツとも見なされるものである。
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ケルンに滞在中(=推定)、初の公式なソロ電子音楽プロジェクト「幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)」名義での最初の電子音楽作品の制作始まる(推定)。
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| 1988 |
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2月下旬頃(推定)、日本にいったん帰国。当時京都に住んでいた姉のマンションに寄宿。この時期、帰国後まもなく、市川カヲルの訪問を受ける。
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3月7日、芙苑晶・マダム呪々・田嶋エリサ・市川カヲル・安永リョウ(のちのスペースDJリョウ)の五人、京都にあった地下のレゲエ・クラブで初めて顔を合わせる。「淫心」(第2期)結成。バンド・ミーティング等をする。
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3月(推定)、「淫心」の2nd アルバム『鳥どもの家』のレコーディング、芙苑晶・安永リョウの自宅で開始。
このアルバムのレコーディングの途中、マダム呪々が脱退。4人編成となる。これがファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットの母胎となった。
ライブを行うが、芙苑晶はドイツに戻ったため、1回参加したのみ(推定)。
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3月末頃(推定)、西ドイツに戻る。ミュンヘンに移る(? = 推定)。
ルートヴィッヒ・マクシミリアン・ミュンヘン大学(ミュンヘン大学)入学。美学、芸術学を学ぶ。専攻は西洋音楽史。
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同時期(発売日不明)、「幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)」名義での最初の電子音楽アルバムが限定盤としてリリースされる。私家版でレーベル番号等はなし、再発もされず。しかし前述の淫心のセカンド・アルバムとともに、ミニマル/サイケデリック・トランス的な電子音楽創作の最初の試みと見られる。
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おそらく、この時期を境に、クラシック/現代音楽の範疇から、よりフリースタイルなノンジャンル・テクノ/電子音楽的な作風に変化したものと思われる。
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以後、日本やヨーロッパのアンダーグラウンド・レイヴ・シーンを中心に1997年まで活動(以下、通称表記に従い、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット ( Far East Acid House Quartet ) と表記)。
(上写真=ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットのジャパン・ツアーのフライヤー。1992年) |
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7月、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットのメンバー、DJ/プロデューサー、デヴィッド・ローレンツと出会い、アルバム制作の話を持ちかけられる。
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7-8月、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット、1stアルバム『十億の神経の針(A Billion Nerve Needles)』のレコーディングをおこなう。
レコーディング中に、このアルバムからのアウトテイクが発展し、芙苑晶の1st『燐光』のトラックへと発展。
元々、「ファー・イースト」のバンド・メンバーが渡欧したのは気まぐれの思いつきからであり、四人とも現地で音楽活動をするつもりはなく、また、その準備もなかった。デビューが決まったのは、ほんの偶然である。
この時点では芙苑晶はまだ学生の身分であったため、大学での勉強を続けるか、音楽活動を続けるか迷っていた。最初の2枚のソロ・アルバム(『燐光(Phosphorescence)』『木霊(Echoes)』)をSiamese Twin名義でリリースし、プロフィールも公表せず、覆面作家としてデビューしたのは、これは一説によると、クラシック音楽や大学での哲学の勉強をすでに逸脱しつつあることが母親にバレないようにするための方便であったともいわれる。
以後、学業と音楽活動を並行しておこなう。
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9月(推定)、田嶋エリサとともにイビザ島の貸家に滞在。芙苑晶、1stソロ・アルバムとなる『燐光(Phosphorescence)』のレコーディングをおこなう。
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11月25日、芙苑晶・1st ソロ・アルバム『燐光(Phosphorescence)』をニューヨークの Nerve Nets Records より発表。芙苑晶、ソロ・アーティストとして公式デビュー。イビザ島に滞在中レコーディングされたシンセサイザー組曲。「 Siamese Twin 」名義。公式リリースされた初のソロ作品(現在は廃盤)。
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アンビエント+トランス + シンフォニー + 前衛音楽と言えそうな壮大で幻想的なサウンドで、アルバム・タイトルは、メスカリン体験の電子音楽による描写というコンセプトがあったと言われる。リリース後すぐに廃盤になったが、現在も評価は高い。
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| 1989 |
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ベルリンに移る。ベルリン自由大学で哲学を専攻。「ヤコブ・ベーメ研究」と題する論文を書く。ほかに「マルキ・ド・サド研究」という論文がある。
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(夏-秋頃か? 推定) 数ヶ月にわたり、ヨーロッパからアジア、アメリカへと世界単独放浪の生活を送る。
ニューヨークに滞在中、現地のアメリカ人の友人らとともに、おもに中南米の遺跡など辺境を訪ね、現地のネイティヴ・アメリカンの音楽家たちとセッションをおこなう。二人は、現地で録音してきたさまざまなネイティヴたちの演奏をサンプリングしループを作成、これを元にしてエレクトロニック・ミュージックを製作し始める。これがバンドとしての「幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)」の母胎となる。
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10月31日、ニューヨークでエレクトロニック・ミュージック・ユニット「幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)」結成、公式のライブ活動開始。芙苑晶によるトランス・ユニット。トライバル・パーカッションほか各種民族楽器と電子音楽を融合したソロ・ユニット・プロジェクトで、芙苑晶はシンセサイザー、キーボード、作曲を担当。
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(11月上旬頃か?)幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)、「マルチメディア・ヴィジョンクウェスト(Multimedia Visionquest)」と題し、電子音楽、民族音楽、ヴィデオドラッグ映像、ダンサー、炎などを加えた音と光のレイヴ・シリーズ、ニューヨーク各地で上演。
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NYの廃ビルやロフトなどでおこなわれたこれらのライブは、野外レイヴ・パーティの先駆とも考えられる実験的な試みである。芙苑晶が行なったこの試みは、のちにファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットの野外レイヴ・シリーズへと発展する。
また、この頃の幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)のサウンドは、トランス、アシッド・テクノ、レイヴ、エスニック・テクノ等の90年代の新たな電子音楽の先駆的・予言者的存在としてのちに評価されることになる。
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幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)・1st アルバム『火星植物園(Mars Botanical Garden)』発表[アメリカ盤のみAurora Heads名義]
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ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットがレイヴの草分けなら、初期の幻覚植物研究所はサイケデリック・トランスの予言とも言えそうな幻覚的サウンドが際立つ本作は、のちにトランスの名盤とされる。
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| 1990 |
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| 1991 |
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日本のアンダーグラウンド・レイヴ・カルチャー機関誌「地底音楽」にて、芙苑晶・初のインタビュー。「Siamese Twin」は自分の覆面作家としての変名であったことを告白。
以後、本名の芙苑晶で活動、また、『木霊』は1993年に芙苑晶名義の最初のアルバムとして Nerve Nets Records より再発された。
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夏頃(=推定)、大学を中退。学業と音楽活動の両立が難しくなったため。以後、音楽活動に専念する。
元々、芙苑晶がドイツに留学したのは、いずれは大学で哲学の博士号を取り、帰国後哲学か語学の教師をするという将来の予定が日本を出る時点で彼と母親との間にあったためだが、しかしこの時点で彼は母を裏切った形になり、これ以降、母親との仲がこじれる原因ともなった。さらにのち、とくにファー・イーストでの活動を母親から「破廉恥で、狂気じみた」行為として激しく非難され、さらにのちに母から勘当される原因ともなった。
- ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット、初のヨーロッパ・ツアー。
- (年末頃か?) オランダ(アムステルダム)に移住。
以後、ヨーロッパを拠点とし、ニューヨーク、アメリカ西海岸、日本を往来しながらの音楽活動を始める。
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| 1992 |
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田嶋エリサ(ダンサー)と結婚。アムステルダムに住む。のちに(時期不明)さらに田舎へ移り、森の中の一軒家で暮らす。二人は、日本では長野県に家を借りて住んでいた。
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芙苑晶・田嶋エリサ夫妻、世界各地へ旅行。とくにインド、チベットへは、何度か滞在した。芙苑晶は田嶋エリサの影響で、チベット密教、ヒンドゥー哲学などを学び始める。これらは次作ソロ『荒廃(Ruins)』、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットの『無法的熱狂祭(Illegal Rave)』などに影響を落としている。
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ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット、この年の暮れ、クラブ出演停止宣言を発表。以後は彼らは、彼ら自身が自主的にレイヴ・パーティをたまに主宰する以外では、ほとんどライブ活動自体をやめてしまい、レコーディング・バンドとなる。
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アムステルダムのクラブで行われたファッションショーの音楽を担当。このショーのオープニングとエンディングに使われた曲が、のちに次作ソロ・アルバムに収録され、「Ruins 2」となる。
- (この年か?=推定)ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットの「レコード会社事件」起きる。ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテッ トのメンバーたちが、日本の某・メジャー系レコード会社に面談に行ったさい、横柄だった担当者の態度に怒ったメンバーたちが、応接室で暴挙を振るい、乱闘 に至った事件。DJのリョウが担当者の頭を灰皿で殴りつけ、田嶋エリサは男の腹に蹴りを入れたという。
Far Eastファンの間では有名な「ファー・イースト伝説」の一つとして知られる。
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| 1993 |
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同じくこの頃出てきたサイケデリック・トランスは、すでに幻覚植物研究所、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット等で「こういう音楽は僕らが始めたようなもの」と発言。
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このころより、日本のファンの間で「ネオ・ヒッピーの元祖」「Mr. Acid」等の異名あり。
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エッセイ『音楽家廃業のすすめ』を「地下室」に連載。
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9月、日本初(世界初)の芙苑晶ファンクラブ「牧神の庭」誕生。初の会報が発行される。
ファンクラブの名前は、アルジャーノン・ブラックウッドの小説の題名に由来。
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10月、芙苑晶・田嶋エリサ夫妻、麻薬取締法違反で逮捕(LSD所持による)。日本に帰国中、日本の京都にあった自宅(本宅はオランダ・アムステルダムにあった)で開かれたパーティに来ていた彼らの友人の、モデル、カメラマン、DJ、ダンサー、クラブ・プロデューサー等とともに検挙される。
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| 1994 |
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| 1995 |
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「ファー・イースト・アシッドハウス・クワルテット」4thアルバム『肺魚の夢(Lung Fish Dreams)』発表。
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ライブ活動をやめ、バンド内にも深刻な分裂があったといわれる彼らは、音楽面でも激しく変化し、ここではIDM、ダーク・アンビエント等、ベッドルーム・テクノ的な実験的サウンドへと変化してファンを驚かせた。芙苑晶はインタビューでこのアルバムを「バスルーム・テクノ」と呼んだ。「ベッドルームよりもっとウェットだから」
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- エッセイ『白痴あるいは半狂乱』を「地下室」に連載。
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| 1996 |
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| 1997 |
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| 1998 |
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『宇宙論(Cosmology)』は欧米を中心に急激に売れ始め、90年代以前の芙苑晶のソロ作品で最も売れたアルバムと見られる。同アルバムは芙苑晶の国際的ブレイク作となり、ジャン・ミッシェル・ジャールやマイク・オールドフィールド、ヴァンゲリス等欧米のトップ・アーティストとも比較されたレビューが登場。国境とジャンルを越えて注目を集めるきっかけともなった。
また、このアルバムでの革新的な音楽上の手法から「シンフォニック・テクノ(Symphonic Techno)」という新語が誕生。のちにWikipedia(英語版)等にも掲載され事実上「新ジャンル」として世界的に認定され、さらに評価を高める。
また、シングル盤「Cosmology 5」はヴァージョン違いのクラブ・リミックスが存在する人気作品となり、クラブ・ヒットに。
これを境に、過去のソロ・アルバム及びファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットのアルバムが遡って売れ、絶版となるという現象が起きた。 |
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- シングル「Cosmology 5」(現在廃盤)。複数のクラブ・リミックスが含まれたキャッチーなトランス・ポップとして、「Ruins 2」「Cathedral 1」とともにクラブ・ヒットに。DJやクラブ・シーンからも注目を浴びる。
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「ファー・イースト・アシッドハウス・クワルテット」6thアルバム(ラストアルバム)『電気羽虫(Electric Locust)』発表。
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バンド解散後に発表されたラストアルバムで、近未来世界をモティーフにした組曲スタイルの凝った作品だが、幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)の曲を組み込んでようやく完成したアルバムだったことや、ボコーダーによるテクノポップ調だったことなどが、ファンに賛否両論を巻き起こした。
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- 『宇宙論(Cosmology)』発表まもなく、アメリカのファンサイトとファンジン誌上で、引退を表明。
- 2000年にリミックス・アルバムは発表されたものの、1998〜2000年頃にかけて、この時期のインタビューでも、森の奥に一人で隠居生活をしているといった話、また、日本のファンの間でも、失踪、死亡説等も流れた。
この時期が低迷期であり、実際の活動はほとんどしておらず、世間にも顔を出していなかったことは、のちに本人も認めていた。オランダ、ネパール、インド等の田舎で隠遁生活をしていたといわれる。
しかしこれと反比例して『宇宙論(Cosmology)』は、発売後、次第に売れ行きを伸ばし、芙苑晶のアーティストとしての国際的ブレイク作となる。
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| 2000 |
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幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)・3rd / クラブ・リミックス・アルバム『Mrs. Cyborg's 12 Dreams(人造夫人の12の夢)』発表。
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「Mrs. Cyborg」「Electrode Land」等がクラブ・ヒットに。彼らの持ち味であるサイケデリック・トランス/ゴアとは異なるポップトランス的なテイストが新境地となった。リミキサーはヒプノティック・ツイン、トランス・レイヴ・ドーターズ。オリジナル曲も収録。
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- Nerve Nets Records、経営難により閉鎖。
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| 2001 |
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| 2003 |
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- ニューアルバム発表と公式サイトの誕生により、日本のファンの間でも「芙苑晶ついにシーンに復帰!」と話題に。
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| 2004 |
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| 2005 |
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| 2006 |
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- 芙苑晶『宇宙論(Cosmology)』デジタル・リマスター盤(2006)、 Music Term (日本のCDディストリビューター)の月間売れ筋チャートにおいて1位。
4月22日の発売後わずか1週間でトップ10入りし、以後1ヶ月間チャートの1位を独走。さらに以後、現在の時点(2007年3月)まで、売れ筋ランキングの1位が3回、トップ10入りは10回以上に及ぶ。
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- また同じく、『宇宙論(Cosmology)』、海外でも売れ続け、ロング・セラー・ヒット・アルバムに。
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- この頃より、『宇宙論(Cosmology)』リマスター盤のヒットの影響か、芙苑晶の廃盤ソロ・アルバム、日本国内でもネットのオークションや中古レコード店等で、数千円〜1万円以上の価格で売られているのがファンによって目撃され、各種掲示板に報告される。
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| 2007 |
- 芙苑晶のCD、日本の Amazon ( Amazon.co.jp )で販売開始。
それまでは海外諸国のほとんど全ての Amazon でCDが出ていたにもかかわらず、 日本の Amazon だけがなぜか取り扱っておらず、以前からファンからはブーイングが上がっていた。
結局、逆輸入の形とはなったものの、この契約により、芙苑晶のみならず、 Lavalamp Records ファミリー関連のアーティストのアイテムは日本のAmazon.co.jpでも買えるようになり、それまでは輸入盤や、高価な中古盤をオークションで買うしかなかった国内のファンにとっては朗報となった。
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- 芙苑晶、Yahoo! Japan カテゴリ「トランス」に登録される(9月18日)。
ちなみに、日本人アーティスト(作曲家)としては史上初。人気順ソートでは、初登場2位。1位は SOLSTICE MUSIC WEBSITE(トランス・パーティ情報サイト)で、アーティストとしては1位。
また、サブカテゴリ「シンセサイザー奏者」では人気順ソートで1位となる。(2位:富田勲、3位: Morgan Fisher)(6月下旬時点〜2007年7月まで、不動の1位。)
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- 10-12月、『恍惚的宇宙論/トランス・レイヴ・コスモロジー (Trance-Rave Cosmology)』、Amazon.co.jpで売れ筋ランキング上位。キーワード別の検索結果「トランス レイヴ」「レイヴ」で1位(124件中)、「トランス」では最高4位まで上がる(1134件中)。断続的に、人気作品「トランス・レイヴ・ベスト」シリーズ(ビクター)のCDを抜き、早くもヒット作品に。
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| 2008 |
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