ミュージシャン。ウィンド奏者、ディジュリドゥ奏者。
ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット(Far East Acid House Quartet) 元・メンバー(故人)。
1967年1月11日生。本名・市川京子。長野県に生まれ、名古屋で育つ。
少女時代は画家志望で、ジャン・コクトー、ピカソを崇拝していた。中学から高校にかけては漫画を描いていた時期もあった。
貿易商を父に持つ裕福な家庭に育ち、当初は成績優秀な文学少女であった。中学三年の時、美大附属高校への進学を希望するも、両親に猛反対されたことがきっかけで、封建主義的な両親に反抗し、このころ初めて家出を試みる。以後、中学時代から高校にかけて、家出を繰り返した。
このため放浪癖が生じ、17才の頃には地元・名古屋から長崎県までヒッチハイクで放浪の旅をしたり、地下鉄の駅でルンペン達と段ボールで夜明かしして眠るなど、逸脱した行動も見られた。高校時代は不登校に陥り、学業に興味を失い、成績は急降下。地元の私立高校を数回転校してのち、ようやく卒業に至る。
高校卒業後、京都に移住。ジャズ・スクールで管楽器(サックス)、音楽理論、アレンジ等を学ぶ。以後、専門学校を中退し、ミュージシャンとして活動。前衛音楽、フリージャズなどの演奏活動を経て、87年「淫心」に加入。
ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット時代 >
88年、同バンドのメンバー全員でロンドン滞在中、アシッド・ハウスとネオ・ヒッピー・カルチャーに象徴される「セカンド・サマー・オブ・ラブ」ムーブメントに遭遇。グループ名を「ファー・イースト・アシッドハウス・クワルテット( Far East Acid House Quartet )」と名前を変えて再出発。同バンドは日本初のレイヴ・バンドとして内外のアンダーグラウンド・シーンを中心に活動を続け、カルト的評価を得た。
バンド内ではリード・パートを担当。管楽器(MIDIウィンド・コントローラー、リリコーン、サックス)、ディジュリドゥ等を演奏、時にはキーボード(おもにベース・パート)等も弾いた。ダンス・ミュージックに民族楽器ディジュリドゥを導入した先駆者でもある。
ライブにおいては元々目立つ存在であったが、シャギーのショートヘアやボブを赤や緑や白など、さまざまな派手な色に染め変え、ベレー帽、古着シャツ、ツギハギ、パンタロンなどをまとうなど、奇抜なファッションと独特のキュートなルックスでも知られ、愛嬌もある人柄であったため、「フーテンずべ公娘」のキャッチフレーズでバンドのマスコット的存在でもあり、男女問わず人気が高かった。
1990年、Far East初期の代表曲であり、バンド初のシングル盤ともなったテクノ・チューン、『親殺し金属バット(Parents Murderer Iron Bat)』は、彼女の作曲によるナンバーである。Far East作品の中で市川カヲルが単独で作曲を担当した曲はそれほど多くはないが、同曲が過激なタイトルが反社会的と見なされ、数カ国で放送禁止に指定されたことなどともあいまって、結果的にFar East初期を代表する人気作品となった。
当時は、音楽以外の方面でも、Far East初期-中期にかけては、「カヲル崇拝」とも言われるカリスマ的人気があった。
最も有名と思われるエピソードとして、91年頃、「地下室」誌上に掲載されたインタビュー上において、市川カヲルの十代の家出をはじめとする数奇な放浪癖のエピソードを読んで影響を受け、ほんとうに家出してしまった十代の少年少女(おもに中学、高校生ら)が続出。彼らは都会の繁華街や友人宅を転々としたり、中にはFar Eastの事務所にやって来るなどの行動に出たため、彼らの両親からFar Eastの事務所ならびにバンドへの激しい抗議文が寄せられるといった「事件」であろう。
この「事件」の波紋はのちにさらに広がり、Far Eastというバンド自体が教育関係者のあいだで問題視されるといった異常事態も見られたほどで、当時のFar Eastファンの熱狂ぶりがうかがえると同時に、「社会現象としてのFar East」といった評価と論争の始まりでもあったと思われる。とくに市川カヲルの影響力は、前出の『親殺し金属バット(Parents Murderer Iron Bat)』といった曲名に象徴される「世代間闘争」に関するものであったと思しい。
また、同インタビュー上で、レズビアンに傾いたバイセクシュアル(両性愛者)であることを告白。「どっちかと言うと女の子のほうが好き。今は、同い年の恋人(女性)と暮らしている」等と語ったほか、高校時代、同い年の少女と恋愛関係にあり、二人で駆け落ちしたが失敗、両親に引き裂かれたため、睡眠薬による心中未遂を経験したこと等々、数々の激甚なエピソードはファンは驚かせ、読者の間に大きな反響があった。
しかし反面、Far East活動後期にあたる、92年後半あたりから94年頃にかけての数年間、さまざまな異常行動が目立つようになり、この時期を境に、その影響もあって、バンド活動そのものがしだいに困難なものとなる。
92年の最後のジャパン・ツアーでは、ステージに上がった市川カヲルは、にやにや笑って客に何か話しかけたかと思うと、何も演奏せず突然ステージを去ってどこかへ消えてしまったり、あるいは、東京のクラブに出演したおり、サックスを放り投げて注射器を取り出し、客の前でシャツをまくって腕に注射してみせたり(客は演出だと思った人たちもいたという)といった奇行の数々を繰り返し、他のメンバーたちのヒンシュクを買っている。
市川カヲルがこの状態に至った原因については、いくつかの憶測がなされているが、薬物(向精神薬)の影響によるものとする見方が濃厚である。
さらに93年に至って、統合失調症(精神分裂症)を発病。仕事を一時休み、精神科に通院を始める。同じ頃、ソロ活動が多忙になった芙苑晶がバンド脱退を希望した時、市川カヲルも「アキがやめるなら、私も脱退したい」と語ったが、市川カヲルが脱退を申し出た理由は芙苑晶とは異なり、統合失調症のためである。
一時は病状は回復していたが、94年に再発、精神病院に入院。この時期と相前後して、地元・大阪のFar Eastファンたち数名が、カヲルらしき人物の姿を街で目撃している。放浪癖、徘徊症の噂もあった。年末に退院。
1995年の前半、新しいマンションに引っ越し、静養生活を始める。プライベートでは、リハビリを兼ねて、自宅でFar Eastの最後のアルバムのための曲作りとデモテープ制作に励むかたわら、絵を描いていた。
しかし同年6月、自宅のアパートで死去。向精神薬と睡眠薬の併用による事故死と推測された。享年28才。
死後の出来事 >
1995年夏、「地下室」誌上に、市川カヲル・追悼特集として、ロング・インタビューとエッセイ、同時掲載。闘病の経緯や将来の希望などを語っていたが、これが最後のインタビュー、エッセイとなった。
この夏には初の油彩画の個展を開く予定があったが、これも実現しなかった。「地下室」に市川カヲルの死の直前に描いていた絵画作品の写真数点が掲載される。
市川カヲルの突然の死がFar Eastの活動にもたらした波紋は大きく、95年の夏に予定されていた日本全国での野外レイヴ・シリーズ(スポンサーがついた初めてのイヴェントであり、これが実現すれば、Far Eastは飛躍的な進化を遂げるであろうと予想されていた)が全てキャンセルされたのをはじめ、残された三人のメンバーたちの失意とメンバー間の対立といった事態をも招いた。 97年には最後に市川カヲルが残したデモテープを元に、Far Eastの5枚目のアルバム(最後から二作目のアルバム)『太陽黒点(Sunspot)』が、他の三人のメンバーたちによって多重録音、制作され、仕上げられた。
21世紀に入って以後のファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット人気再燃現象の中で、2000-2002年頃、市川カヲルをのちの「プチ家出の教祖」と見なすレビュー等もウェブ上(当時存在した非公認ファンサイト)に見られたことがあった。
芙苑晶との関連 > 元・バンドメンバー、友人
「淫心」「ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット」のバンドメンバー。
芙苑晶を「淫心」に誘い、加入させた人物で、プライベートでは親友でもあった。
関連リンク >
「無法的熱狂祭」ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット(Far East Acid House Quartet) ファンサイト/資料館
Lavalamp Records
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