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| (上)芙苑晶『宇宙論(Cosmology)』(1988) |
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| (上) 芙苑晶『燐光(Phosphorescence)』(1988、 Siamese Twin 名義) |
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| (上)淫心『鳥どもの家』(1987) |
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| (写真提供= FZONO.COM ) |
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芙苑晶との関連 > 影響、思想的関連、発展させた人、シンフォビエント、シンフォニック・テクノ
芙苑晶がクラシックから出発したことはファンならご存知だろう。いま現在芙苑晶がやっている音楽は、大作『年代記(Chronicle)』を除いては、およそクラシックとはまるで違っているが、しかしどのプロジェクトもなんらかの意味でのこのクラシック、もしくは現代音楽と深い関連がある。
それも、表面的な影響にとどまらず、思想的なものにかかわる、本質的関連を感じさせる点で、クラウトロックやアンビエントとの関係に似ている。
フランク・ザッパや坂本龍一などの例を出すまでもなく、クラシックを学んだコンポーザーは強い。つまり技術のレベルが人と違うということ、これはジャンルが違っても、やはり大きなことなのだろうと思わせられることは多い。
ちがう例えで言えば、ちゃんとアカデミックな訓練を受けた絵描きは漫画を描いても相当上手い、というようなものだ。
芙苑晶の音楽にも、それを感じる人は多いに違いない。つまり、「レベルの差」みたいなものである。
そして芙苑晶の場合おもしろいのが、坂本龍一のようにクラシックの影響をそのまま、生の形で出すのではなく、一見(『年代記(Chronicle)』のような意識的にクラシックにシフトした作品は別として)ふつうのテクノやアンビエントにも聞こえなくはないし、ぐらい、非常に洗練された域に達しているというところが、かえって凄いと思う。
というのは、これはあるプログレ系の芙苑晶ファンの人が言っていた話だが、その人いわく「坂本龍一は、聞いてると『あー、アカデミックだなー』と思うし、ザッパのある曲なんか、クラシック聞かないとわからないわけですけど、芙苑晶の場合、そういう難しさはないでしょ。でも、芙苑晶の曲を何度も何度も聴いて、ハマってしまったあとで、気がついたらいつの間にかクラシックの良さがわかってきた、みたいなことがある。そういう違いがある」というのである。
これは実に興味深い指摘だと僕はそのとき思った。
この経験をした人は、あんがい多いのではないだろうか?
ちょっとお恥ずかしながら告白するが、かくいう僕もまさにその一人で、正直言って昔はクラシック音楽は苦手だった。嫌いではなかったが、苦手だったのだ。
僕は、ジャンルで言うと、テクノ、アンビエント、プログレなんかが前から好きで、それはいずれもクラシックに関係のある音楽ばかりなので、努力して聞こうとした時期もあったが、しかししょせん下手の横好きであった。
ところが、芙苑晶のアルバムを集めるようになってから、そのへんの事情が変わった。
とくに『伽藍(Cathedral)』や『宇宙論(Cosmology)』あたりには教会音楽の影響があって、こういうものを一時は毎日のように聞いていたおかげで、バッハやベートーヴェンあたりの音楽が好きになってしまった。そこからあとはもう勢いがついて、芙苑晶がワグナーが好きだったと聞けばワグナーのCDを買って聴き …… というように、いわば遡るような感じで聞くようになった。
うがって言ってみれば、芙苑晶は僕の食わず嫌いを治してくれたのだ。そして、これはあとでわかったことだが、日本の芙苑晶ファンにはそういう人たちが意外なほどたくさんいる。
言ってみれば、芙苑晶が影響されているというよりも、芙苑晶を通してファンがクラシックの影響を知らず知らずに受けてしまう、ということがあるのではないかと思われる。
芙苑晶ファン(と言うより賛美している人たち)にプログレ系リスナーが多いと言われるのもうなずける話ではあるが、しかし実際のところ、シンフォニック・ロックだとか言っても、聞いてみるとチョコッとストリング・シンセを使っただけのお粗末なものがほとんどであり、そのあとで芙苑晶の音楽(やはりとくに『伽藍(Cathedral)』『宇宙論(Cosmology)』『年代記(Chronicle)』あたり)を聞くと、こっちのほうがテクノ寄りなのにもっとクラシックだ、というのがわかるのである。
芙苑晶との関連 > 経歴的に見た場合
経歴的に見ると、これもファンにはよく知られているとおり、芙苑晶は最初、クラシック作曲家志望の少年であり、十四才ぐらいまでにすでに、弦楽四重奏や交響詩、オルガン・トッカータなどを発表していた天才だった。
個人的な好みでは、バッハやワグナーが好きだった。とくにワグナーは崇拝していた。
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