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芙苑晶との関連 > サイケデリック・トランスの先駆者ないしは、サイケデリック・トランスの発展形電子音楽のパイオニアとしての評価、同時代的な関連と相互影響
アシッド・ハウスの項目でも述べたが、アシッド・ハウスに端を発する広い意味でのサイケデリック・トランス/テクノは、芙苑晶の音楽と深い関連がある。
音楽的にも、さらにサブカルチャー的な意味も含めて言っても、芙苑晶はアシッド・ハウスと言うよりは、むしろどちらかというとサイケデリック・トランス寄り、ないしはその相互関連ないしは相互影響が強いアーティストと言えるだろう。
デビュー作となったソロ・アルバム 『燐光(Phosphorescence)』(1988)をはじめ、それとほぼ同時期に立て続けに発表された、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット(Far East Acid House Quartet) の1stアルバム『十億の神経の針(A Billion Nerve Needles)』 (1988)、幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)『火星植物園(Mars Botanical Garden)』(1989)等、芙苑晶の関わった所期のバンド・プロジェクトの作品は、それぞれテイストは異なるものの、「サイケデリックなトランス・ミュージック」という共通項があった。
しかも、これらのバンド・プロジェクトにおいても、作曲はほとんど芙苑晶が手がけていた。つまり「時代の一歩先を行っていた」わけで、この点で、これらは現在ではいずれも「トランス」、とりわけ、サイケデリック・トランスの先駆的作品と見なされている。
歴史を遡って見てみると、当時はまだ「サイケデリック・トランス」はおろか、「トランス」というジャンル名さえもなく、アシッド・ハウスさえ(ロンドンやシカゴ等の一部の地域を除き)一般には知られていなかった時代であった。ロンドンやシカゴにおいてすら、まだせいぜい「アシッド・ハウス」の時代であった。
歴史的に見ると、アシッド・ハウスはのちのサイケデリック・トランスにつながるが、芙苑晶はこの流れを予言していた世界にも稀な作曲家の一人であると言えそうだ。
この点では、芙苑晶をトランス(とりわけサイケデリック・トランス)の世界的オリジネーターの一人と見なす説もある。
その「影響」は、1980年代末期のアシッド・ハウス・ムーブメントとの関わりから始まっているように「見える」(し、レビュー等ではそう言われて来た)が、ただしこれは、「ダンス・ミュージックの歴史の流れにおいて」見た場合の話に過ぎない。芙苑晶はアシッド・ハウスなんかより以前から、すでにこの手の音楽を(しかも非常に彼独特のオリジナルな方法で)手がけていた天才なのだ。
80年代末の時点ですらすでに芙苑晶は、『燐光(Phosphorescence)』(1988)において、クラシックや前衛音楽との融合によって独自なトランス・ミュージックのスタイルを生み出していた。ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットや幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)の音楽は、芙苑晶のソロ作品に比べるともっとストレートな「テクノ」や「ダンス・ミュージック」に聴こえるが、しかし、他の「サイケデリック・トランス」のアーティストの音楽と比べてみればわかるが、ファー・イーストや幻覚植物研究所(Psychedelic Plants Research Laboratory)の曲でさえ、今聞き直してみると、非常にオリジナルであり、しかも、今聴いても全く古びていないのは驚異的だ。
それもそのはずで、元々ダンスミュージックから出発したわけではなく、クラシックやサイケデリック・ロックにルーツを持ち、なおかつ民族音楽などから影響を受けていた芙苑晶は、とかく一つのムーブメントが起きるとその型にはまってワンパターンな曲を大量生産しがちなテクノ/ハウス系のアーティストとは、そもそもアプローチの仕方自体が根本的に異なっている。
アシッド・ハウスとの関わり同様、そのジャンルやムーブメントの中に「取り込まれる」、あるいはそこに「便乗する」のではなく、サイケデリック・トランスならサイケデリック・トランスを「利用して」、型にはまらない自分独自の新しい音楽を創り出すといった姿勢は、世界広しといえども稀有なものと思われ、実際、芙苑晶はそのようにして彼独自の音楽を生み出してきたのだった。
これだけでも凄いが、
しかし彼は、そこにすら安住しなかった。とくに、ソロ・アルバムにおいては、必ずしもフロア向けのダンス・ミュージックばかりとは限らなかった(まあ言えば、どちらかと言うとリスニング的なプログレッシブ・トランス寄りというイメージであった)ことや、他の多くのトランス・アーティストと違って、DJ活動はおろか、ソロでのライヴなどもほとんど行わず、ひたすらレコーディング・アーティストとしてクオリティの高い作品を創造し続けてきた(早い話が終始「作曲家」であった)こと、さらに、高度にオリジナルな手法や、クロス・ジャンル的でもあったため、初期には(とくにジャンル分けの好きな日本においては)「実験的なテクノ・アーティスト」のように長らく受け取られていたふしもあり、評価が遅れてきたきらいは否めない。
しかしまた一方で、「芙苑晶ほどサイケデリック・トランスな音楽家はいない !!」と断言するコアなファンたちも、日本には早くから存在した。彼らは、口を揃えて言う。
「芙苑晶の音楽---とくにアルバムをぶっ通しで聞く時の『ハマリ』具合は、並みのワンパターン・トランスの比じゃない」
「ふつうのサイトランスが地球上の異境を旅するランドスケープなら、AQi先生の音楽は宇宙の彼方へ飛ばされるっていう、そういう違いね」
「いったん芙苑晶のアルバムにハマる味を覚えると、もうふつうのトランスには戻れない」
「AQiさんは昔、ワグナー・フリークだったじゃない。それが分かるんだよね。ワグナーってハマると戻ってこれないってよく言うでしょ」
(芙苑晶・FC会報・1998年号/ファンの声より抜粋)
これらの中で最も注目すべき意見は、「ふつうのトランスは、アシッドをキメて、トランス・パーティで踊って、やっとトランス状態になれる。芙苑晶の音楽は、そんな面倒くさいセッティングなんかなくったって、聴けば充分飛べるんだから」---という、1ファンの素朴な意見かもしれない。これは、当時芙苑晶が提唱していた「電子音楽によるヴァーチャル・トリップの可能性」という発言と対応する。
実際、90年代初期には、数年間にわたってアシッド(LSD)やメスカリンによるサイケデリック・トリップをやり尽くしてしまい、さらにのちにチベット密教や禅を学んだことで、「意識の回路を音楽によって開く」という主張に達した彼にとっては、サイケデリック・トランスの「ムーヴメント」など、もはや取るに足りないものだったに違いない。
つまり、芙苑晶という音楽家と「サイケデリック・トランス」との関わりにおいて重要なことは、彼の場合、アシッド・ハウスにしてもサイケデリック・トランスにしても、音とか機材とかシーケンス・パターンといった、表面的なスタイルを真似るのではなく、トータルな文化現象としての「サイケデリック」そして「トランス」というものと深い関わりを持っているということだ。
それは例えば、ソロ・アルバム『荒廃(Ruins)』(1993)『伽藍(Cathedral)』(1995)などにおける、芙苑晶自身のアシッド(LSD)摂取による「超絶」体験が、アルバム創作のモティーフそのものとして使われていること、そしてそれがシンフォビエントという彼自身の発明に結びついていることなどからも、あきらかであろう。
サイケデリック・テクノ(トランスを含む)については、芙苑晶は次のような発言を残している。
「それ以前、つまり80年代以前の音楽においては、サイケデリックといったところで、それは雰囲気モノにすぎなかった。あるミュージシャンがサイケデリックと呼ばれる場合、その評価の内実は、その人のファッションとかステージとか歌詞とか、そういうファッション的な部分に負うところが大きかったわけ。
だから60年代末のいわゆるサイケデリック・バンドなんて、今聴くとただのガレージ・ロックだったりするじゃない。(中略)
サイケデリック・アートの画家がやったように、音そのものがサイケデリックの表現であるという体験はほとんどなかったわけ。(中略)
僕はそこをひっくり返したわけ。これは、電子楽器やコンピューターが出てきて初めて可能になったことで、しかも、僕はそのさらに先を行った。アルバムを組曲のスタイルにすることで、LSDのトリップそっくりな映像を音で描写することが出来ると発見したんだ。(中略)
そういう意味じゃ、もしかしたら僕は、世界初のサイケデリック音楽の作曲家だと思うよ
」
(インタビューより)
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