| ディスクレビュー |
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芙苑晶の4作目にあたる本作は、当時流行だったサイケデリック・テクノやトランスの手法を取り入れつつも、合唱やエスニック・リズムを大胆にフィーチャーして、テクノとクラシックの奇跡的な融合と評された野心作。シンフォビエント三部作の最後を飾る壮大な作品である。 |
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まず、興味深いのは、このアルバムが作られたエピソード(芙苑晶自身の体験に基づく)である。
1993年、当時の妻だった田嶋エリサとともにヨーロッパ各地を旅していた彼は、フランスに滞在中、彼女とともに、アシッド(LSD)をキメたままノートルダム大聖堂(シャルトル大聖堂)に入った。芙苑晶は、彼の敬愛する小説家・J・K・ユイスマンスがその長編小説『大伽藍(La Cathedrale)』で描き出した神秘なこの大聖堂に、少年時代から憧れていたのだった。
ところがその「ロンドンのDJからもらった、おそらく安物で、大して効かないだろうと思っていた」LSDは強烈なものだったらしく、芙苑晶はこの大聖堂の中で、かつてない凄絶なトリップを体験した。
それが具体的にどんなものであったかは、芙苑晶ののちに書いた手記風のエッセイ、ならびに、初回プレスの『伽藍』のブックレットの中で、詩編のような感じでごく短く紹介されているのみで、
詳しく知ることはできないが、ここでごく大まかに言うと、ステンドグラスがかつて見たこともない凄絶な色と大音響をともなって溶けて流れ、キリストやモーゼが、さらに仏陀までが生々しい姿で現れて、彼は天国と地獄を見る。そしてその中で、「すべては一つである」という神秘的なメッセージを体験するのである。
それはかつて彼が傾倒していた神秘主義、神智学の教えや、また、ちょうどこの当時、田嶋エリサからの影響で学んでいたヒンドゥー哲学の教えとも合致するものであり、ただのサイケデリック・トリップを超えた一種の、若き芸術家の超絶的神秘体験とも言えるそれは、ただの「楽屋裏話」や「モティーフ」といった域を超えて、この作品に言葉で言い表しがたい異様な迫力と、鬼気迫るムードを与えている。
一種の接神体験と言ってよいそれは、生まれ変わったほどの衝撃を彼に与え、このトリップが終わった直後、彼は、この叙事詩的なすさまじい幻覚体験を自分の最新作のアルバムのモティーフにしようと決意したのだった。 |
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もちろん、よく言われるように、芙苑晶の音楽は、言葉のない純粋な音楽であり、そんなエピソードなど知らずに聞いても、それ自体で面白く、充分楽しめるものだ。
しかし、あたかも現代版の「幻想交響詩」(ベルリオーズ)風なこの作曲のエピソード=モティーフを知って聞くと、ますます音楽が広がりを持って聞こえ、一種の音楽によるヴァーチャル・トリップを楽しめること請け合いである。 |
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そしてまた、忘れてはならないのは、そうした壮大な叙事詩的世界を音で描写するだけの能力が、芙苑晶にはあったということだ。
このアルバムを起点として、デビュー作である『燐光』以来隠されていた(時には芙苑晶自身、それを故意に振り切ろうとしていた)、彼のルーツでもあるクラシックからの影響が、それに相応するモティーフを得たことにより、一気に噴き出すことになる。 |
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サイケデリック・ドラッグによるアルタード・ステイツ体験の、音楽による描写。それは『燐光』にもすでにあったものだし、もしかしたらそれに続く『木霊』や『荒廃』さえも、その影響があったと思われるほどだが、しかし芙苑晶は、もはやこの体験の内容を表現するには、シンセサイザーを使うだけでは到底足りないと感じ、本物の合唱やパイプオルガンを導入、より高度で広がりのある音楽表現を実現した。
それと並行して、音楽的にも、それまでは抑え気味に表現されていたクラシックからの影響が表面に、より鮮烈に現れることになる。
つまり、サイケデリック体験が極まった時、かつて捨てたと思っていたクラシックの作曲技術が活かされることになったのである。なんという皮肉な、そして稀有な巡り合わせだろうか?
そしてそうした新しい表現は、結果的に、見事にこのアルバムのテーマに合致し、芙苑晶はいまだかつて誰も達したことのない新しい世界と方法論を切り開いて、ひいてはそれは、次作『宇宙論』以降の新次元へのステップともなったのだった。 |
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「音楽によるヴァーチャル・トリップ」。
これこそは、芙苑晶の世界を貫く大きな一貫したテーマであり、方法論であり、また、彼のアーティストとしての表現哲学の根幹を成すものであろう。
『燐光』から最新作(2005年10月現在)『年代記』に至るまで、テーマや表現方法がさまざまに変われども(実際、ロック/ポップ界にあっては、これほど表現方法がダイナミックに変化してきたアーティストも稀有であり、この点で、芙苑晶はフランク・ザッパにも匹敵する)、一貫してその底に流れていたのはこういった「映像的な」手法であり、それが世にあまたある、安物の「トリップ・ミュージック」なるものたちとは明白な一線を画してもきたのだった。
芙苑晶の場合、それはおもにサイケデリック体験を媒介としながらも、むしろ、クラシックの後期ロマン派や印象派にも似た技法で内的ヴィジョンを描写し、それを連ねることである壮大なストーリーを展開させるという、むしろシンフォニー作家的なスタイル・方法が、そのまま彼の個人的な表現の志向性、ひいては才能と結びついていたところが何よりもユニークで、ワン・アンド・オンリーな個性となっているのである。
音楽的な意味でも、クラシックとサイケデリックと電子音楽が結びつくという、本来ならばありえないことを達成したのも、芙苑晶の特異な技巧と作曲家としての天才的才能あってこその奇蹟であった。 |
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| さて、前置きが長くなったが、そういった根本的な違いもあって、『木霊』よりは全体にはるかにダイナミックで、『宇宙論』の壮大なスケールを予感させるようなサウンドと、よりシンフォニックに凝ったアレンジは、すでにシンフォビエントというよりはシンフォニック・テクノ(ロックではなく)とでもいったイメージであり、たしか海外レビューではそういう評もあったという記憶がある。 |
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当然のことながら、サウンド面でも、シンフォビエント三部作の最後を飾る作品にふさわしく、これまでで最も壮大で、楽器編成も凝りに凝っている。
これまで通りアナログ・シンセを中心としたアンサンブルに加え、それまでのアルバムにはなかった新しい要素として、パイプ・オルガンや合唱などを加え、多重録音によって生み出されるヴァーチャル・エレクトロニック・オーケストラのサウンド、その多層的なうねりが生み出すトランス感は、並みのトランス・テクノでは到底味わえない深く神秘的なもので、こんな音楽を作れるのは、世界広しといえども芙苑晶を除いて他にいないのではないかと思わせるほど独創的かつ壮大なスケール感と異様な迫力を感じさせる音になっており、彼の音楽的な引き出しの広さと奥行きを感じさせるものだ。
中でも、教会音楽とサイケデリック・トランスが合体した大曲『伽藍1(Cathedral 1)』は圧巻で、こういう凄まじくハイブリッドかつ斬新なアレンジはもしかしたらこのアルバムが世界初ではないだろうか(筆者の知る限り、他には聴いたことがない)。 |
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また、サウンド面では、TB-303系の「アシッド・テクノ的な」音が目立ち、アルバム発表当時、ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット解散がささやかれ、芙苑晶自身、安易な「サイケデリック・トランス」や「アンビエント」の通俗化と流行には辟易したふうな発言をしていた時期だっただけに、そういったサウンドが、時流の影響というよりはむしろ、元祖ミスター・アシッド・テクノの逆襲といった、したたかな感じがしたのも印象的だった。
この、時流の中で軽薄な同時代的流行となっていくテクノ・ムーブメントに対し、先駆者としてそれを否定するのではなくむしろ堂々と取り入れ、逆に自分流のアレンジでいなしてしまうといった、確信犯的な懐の深さを感じさせる手法は、クラシック的作曲スタイルの導入と並行するかたちで、前作『荒廃』に端を発し、この『伽藍』を経由して発展、次作『宇宙論』に至って頂点に達する。
それらはちょうど、90年代におけるテクノ/ダンス・ミュージックの通俗化・ポップ化と並行関係にあり、同じファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテットのスペースDJリョウが世間に背を向けるような志向性だった(そして数年後彼は事実上引退してしまった)のに対し、芙苑晶はむしろそれらを貪婪に吸収し、自分のテイストにして吐き出してしまった。
このしたたかで大胆かつ緻密な手法こそが、『宇宙論』においてシンフォニック・テクノと評されたところのそれの根幹を成す美学とリンクしたものであったことを強調しておこう。それはまさに、『伽藍』に始まっているのである。 |
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| (四谷英巳) |